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18041242 ベトナムにおける福沢諭吉の「実学」思想 について研究する現状 = thực trạng về nghiên cứu tư tưởng “thực học” của fukuzawa yukichi tại việt nam

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THÔNG TIN TÀI LIỆU

Thông tin cơ bản

Tiêu đề Thực trạng về nghiên cứu tư tưởng “Thực Học” của Fukuzawa Yukichi tại Việt Nam
Tác giả Bui Dinh Thang, Bui Ngoc Van
Người hướng dẫn Bui Dinh Thang
Trường học Đại Học Ngoại Ngữ - Đại Học Quốc Gia Hà Nội
Chuyên ngành Ngôn Ngữ Và Văn Hóa Nhật Bản
Thể loại Thesis
Năm xuất bản 2022
Thành phố Hà Nội
Định dạng
Số trang 56
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Nội dung

18041242 ベトナムにおける福沢諭吉の「実学」思想 について研究する現状 = thực trạng về nghiên cứu tư tưởng “thực học” của fukuzawa yukichi tại việt nam

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ハノイ国家大学・外国語大学 日本言語文化学部

卒業論文

ベトナムにおける福沢諭吉の「実学」思想

について研究する現状

指導教員 Bui Dinh Thang

学生 Bui Ngoc Van

学年コード QH2018

学生番号 18041242

ハノイ、2022 年

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ĐẠI HỌC NGOẠI NGỮ - ĐẠI HỌC QUỐC GIA HÀ NỘI KHOA NGÔN NGỮ VÀ VĂN HOÁ NHẬT BẢN

LUẬN VĂN TỐT NGHIỆP

THỰC TRẠNG VỀ NGHIÊN CỨU TƯ TƯỞNG

“THỰC HỌC” CỦA FUKUZAWA YUKICHI TẠI

VIỆT NAM

Giáo viên hướng dẫn: Bùi Đình Thắng Sinh viên thực hiện: Bùi Ngọc Vân Khoá QH2018

Mã số sinh viên: 18041242

HÀ NỘI, 2022

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謝辞

本稿に順調に進めるにあたり、多くの方々にお世話になりました。ここ に深く感謝の意を表します。本研究を行うために、他の方からご援助をい ただきました。特にハノイ国家大学・外国語大学の Bui Dinh Thang 先生は 本研究に対し、深い関心を寄せ、構想の大枠から本論の詳細までご親切に ご指導をくださいました。心から言葉で表せないほど厚く感謝いたします。 また、日本言語文化学部の先生方々が貴重なご意見をいただいたことに感 謝申し上げたいと思います。

ブイ・ゴク・ヴァン

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2

誓言

この卒業論文は他の人のものではなく、自分の研究である。論文の内容 は参考文献に述べた本、雑誌などに載せられる資料、研究を利用した。ま た、論文に述べた結果は信頼度があり、以前に発表されていないことを保 証する。

ブイ・ゴク・ヴァン

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目次

第一章 序論 5

1 はじめに 5

2 研究対象 8

3 研究範囲 8

4 研究方法 8

5 論文の構成 9

第二章 先行研究 10

1 福沢諭吉の教育思想また「実学」思想に基づく研究 10

2 未解決問題 12

第三章 福沢諭吉と『学問のすゝめ』 13

1 福沢諭吉 13

1.1 福沢諭吉の生涯 14

1.2 福沢諭吉の教育思想 17

2 『学問のすゝめ』 22

第四章 『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミスとその影響 24

1 『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミス 24

2 『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミスの影響 38

第五章 「実学」思想について研究する現状 41

1 小林加代子による福沢諭吉の「実学」思想 41

2 ベトナムにおける福沢諭吉の「実学」思想研究の問題点 43

2.1 Nguyen Viet Phuong(2011)Tư Tưởng Giáo Dục Của Fukuzawa Yukichi Trong Tác Phẩm "Khuyến Học" 43

2.2 Dinh Quang Trung(2015)Tư tưởng giáo dục của Fukuzawa Yukichi 46

2.3 Nguyen Thi Han Thy、Nguyen Viet Phuong(2020)Tư Tưởng Thực Học Của Fukuzawa Yukichi Và Ý Nghĩa Tham Chiếu Cho Giáo Dục Việt Nam Hiện Nay 48

結論 51

参考文献 52

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4

要約

教育は国々の発展にとって重要だ。以前から、先進国においては教育に大きな力をいれている。19 世紀からアメリカをはじめ先進国は多くの教育戦略や教育システムの開発などによって現在の教育の成果が認められた。また、19 世紀には、日本は他のアジア諸国と異なり、明治時代に入って西洋から学びはじめ、今のように大きな成功を収めている。これは「明治維新」と呼ばれている。明治維新における、教育改革と言うことは現在になっても日本の発展に大きく貢献している。明治維新の教育改革に一番大きな役割を果たしたのは、福沢諭吉だろう。福沢諭吉の教育思想と言えば、『学問のすゝめ』と「実学」思想を言及しなければならない。特に、「実学」思想は今日までも有効である。その証拠は、現在

「実学」思想に関する研究が続けていて行なわれている。

現在、ベトナムは発展途上国で、国の発展を促進するため適切教育政策が必要とされている。その中ももっと重要のは、教育理念をどう設定するのかということである。しかし、ベトナムは今教育理念まだがない。このように、ベトナムの教育理念と教育方針を定めるように日本は明治維新の教育政策に福沢諭吉の教育観を取り入れた教育理念を設置することによって、西洋化を推進し西洋諸国にキャチャアップできたため、その理念を設定するには福沢諭吉の教育観と「実学」思想を参考する価値がある。

実際に多くのベトナム学者は「実学」について研究することがあった。しかし、それらの研究は、「実学」思想について正しく理解しているのか。本論文は、福沢諭吉の「実学」思想を明らかにし、『学問のすゝめ』のベトナム語版の翻訳ミスを分析し、ベトナムにおける福沢諭吉の「実学」思想について研究する現状を調べ、ベトナムの教育の将来の発展を貢献する。

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第一章 序論

1 はじめに

教育は世界のあらゆる国の発展にとって重要だ。現在、これを早くから認識していた米国、英国、欧州諸国などの先進国は、教育に大きな力を入れている。そのため、教育において多くの成果を上げている。国の教育を総合的に評価する基準はないが、ある程度評価できる指数があるだろう。例えば識字率の高さ、PISAスコアの高さ、教育システムの優越性、テクノロジーの適用度、世界ハイレベルの大学の多さなどが評価指数になり得る。先進国においてそういった指数が高いのはその国の教育政策の成功を反映しているだろう。

では、なぜその国々の教育政策がそのように成功しているのだろうか。教育システムを開発する上で戦略的かつ系統的な教育政策必要である。例としてアメリカを取り上げる。19 世紀には、アメリカにはすでに公立学校制度、学校改革、

ような最初の公立学校としての地位を確立することを可能にした。

また、19 世紀には日本はほかのアジア諸国と異なり、明治時代に入って西洋から学びはじめ、今日のように大きな成功を収めている。これは「明治維新」と呼ばれている。明治維新により、経済、政治、社会、教育などの改革が進められていった。その中で、特に教育改革は、現在になっても日本の発展に大きく貢献している。

沢諭吉によって「慶応義塾」という日本の最初の大学が設立され、「新しい文明

1 ホーレス・マン(1796 年生まれた):政治家、すべての人々の教育を受ける権利のために戦っ た。 個人ではなく地域の責任であるように、より長い学年と学校への資金提供を提唱した。 ま た、より訓練されたプロの教師を提唱した。

2 ウィリアム・ホームズ・マクガフィー:1841 年に彼の最初の読者を発表し、子供たちに彼の倫理 規定を紹介した。これはまもなく子供たちの教育のための 19 世紀のカリキュラムの作成になる。

吉は近代の日本社会に最も深く影響を与えた偉大な思想家である。福沢が広めた政治、社会、経 済、教育の思想は、19 世紀後半に日本の顔を完全に変えた。

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言えば、「実学」を言及しなければならない。福沢諭吉の『学問のすゝめ』に含まれている「実学」思想は今日でも有効である。その証拠は、現在「実学」思想に関する研究が継続的に行われている。明治維新における教育政策には福沢諭吉

えている。そのため、欧米にキャッチアップできるようになり、後発の国は先進国に追いつくために、適切な教育理念が必要だと認識し、それを悩んでいる国が多いのである。ベトナムもその例外ではない。

現在、ベトナムは発展途上国であり、国の発展を促進するための適切な教育政策が緊急に必要とされている。その中で最も重要なのは、教育理念をどう設定するのかということである。Tran Van Thuy(2021)によると、「教育理念は、アクティブな科目が人々を行動に導くために提示する教育活動の主要な視点、イデオ

本的で中心的なものである。生徒がどのように学ばなければならないか、そして教師がどのように教えるべきかは、教育理念の一部である。教育理念は教育活動の指針と言える。教育理念がなければ、教育は適切に調整されておらず、国の発展の方向から逸脱する可能性がある。

では、ベトナムには今、特定の教育理念があるのか。1993 年の第三回中央委員会の決議(第 7 期)では、教育と訓練が国の最重要政策であり、教育への投資は開発への投資であることが確認された。その後、ベトナム共産党は全国共産党大会第 8 回(1996 年)より、「教育と訓練は本当に重要な国家政策にならなければならない」と強調してきた。ところが、教育理念について論じていない。

「Kết hợp lý luận với thực tế」(邦訳「理論と現実をつなぐ」)、「Học đi đôi với

4 文部科学省の記事、「第二節 明治維新直後の教育」

5 1872 年(明治 5 年)の学制成立を鳴矢とする,わが国の学校教育制度は,周知のとおり福沢諭吉 による啓蒙書『学問のすゝめ』を理念的根拠としたものである。その理念とは被仰出書に「一般の 人民、麦難‡必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と明記されているとおり, 旧来の身分制度に囚われない,普通教育の普及・徹底,すなわち国民皆学を標榜したものであった。

6 原文は“Triết lý giáo dục là quan điểm, tư tưởng chủ đạo, cốt lõi của hoạt động giáo dục mà chủ thể hoạt động đề ra nhằm định hướng cho con người hành động.”です。 ( Góp phần bàn về triết lý giáo dục Việt Nam hiện nay | Tạp chí Tuyên giáo (tuyengiao.vn) 、2021年 5 月 1 日アクセス)

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hành」(邦訳「学習と実践をつなぐ」)、「Giáo dục kết hợp với lao động sản xuất」(邦訳「教育と生産的な仕事をつなぐ」)とよく耳にしているがこれらは教育のスローガンに過ぎないと言わざるを得ない。一方では、「Học mãi để tiến bộ」(邦訳「進歩するために学び続ける」)、「Học suốt đời」(邦訳「一生学ぶ」)、「Xây dựng xã hội học tập」(邦訳「学習社会の構築」)というのも、教育の要件と方法を表しているのである。または、多くの小学校、中学校、高校で見られる 「Dạy tốt, học tốt」(邦訳「よく教え、よく学ぶ」)という思想は、教育の目的を特定するのではなく、単なる教授法の観点であり、これも教育理念ではない。

このように、ベトナム共産党及び政府はまだベトナムの教育理念を定めていない。ベトナムの教育理念はまだ不明確であるため、ベトナムの教育方針とそれにかかわる将来の発展にとって大きな課題を残していると言える。特にインダストリー4.0 の時代にテクノロジーに依存しがちの問題が顕在化しているなかで、教育理念を持つことは不可欠である。前述したように、日本は明治維新の教育政策に福沢諭吉の思想・教育観を取り入れた教育理念を設置することによって、西洋化を推進し、西洋諸国にキャッチアップできたため、その理念を設定するには福沢諭吉の教育観と「実学」の思想を参考する価値がある。

実際に多くのベトナム学者は「実学」について言及している。しかし、果たして「実学」の思想について正しく理解しているのかという問題意識から出発する。「実学」について、ベトナムにおいて Nguyen Viet Phuong(2011)、Dinh Quang Trung(2015)、Nguyen Thi Han Thy、Nguyen Viet Phuong(2020)が直接に研究に取り組んでいる。しかし、これらの研究には次のような問題がある。福沢諭吉の教育思想を研究しているが、「実学」について述べていないか、「実学」について間違った解釈をしている。そのため、逸脱するような展開や議論になるに違いない。本論文は、福沢諭吉の「実学」思想を明らかにし、ベトナムにおける「実学」思想について研究する現状を論じる目的にある。

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①分析および総合方法

分析と総合は、論文を研究する過程で、密接に関連した 2 つの方法である。福沢諭吉の教育改革思想の分析から、明治時代の日本の教育分野における福沢諭吉の基本的な改革内容を引き出すことができる。この分析から、今日のベトナムの教育改革と教育システムのさらなる改善についていくつかの提案を引き出すことができる。問題研究で高い効率と説得を達成するために、分析と合成の方法が論文で非常に一般的に使用されている。

②比較方法

この方法を使用することで、学位論文は、学んだ教訓を引き出すために、現代日本の福沢諭吉の教育思想を比較対照することができる。そこから、レッスンを描き、ベトナムに適用する。

③論理的・歴史的方法

論理・歴史的方法を使用することは、日本の明治維新における教育に焦点を当て、運動の法則と福沢諭吉の思想の必然的な変化を理解するのに役立つ。

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5 論文の構成

本論文は、五章の構成になる。第二章では、本論文に関する先行研究を説明する。次に第三章では、福沢諭吉と『学問のすゝめ』について説明する。第四章では、『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミスとその影響である。第五章では、「実学」思想について研究する現状である。

本論文は以上の議論をしたうえで、いくつかの課題が残っている。これらの課題は次の研究に期したい。

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第二章 先行研究

日本の明治時代の改革過程で重要な役割を果たした思想的代表者の一人として、福沢諭吉はベトナムだけでなく国内外の学者による多くの研究の対象となった。この章は二つの部分に分かれている。福沢諭吉の教育思想、また「実学」思想に基づく研究と未解決問題。

1 福沢諭吉の教育思想また「実学」思想に基づく研究

1.1 日本学者の先行研究

河原美耶子 (1970)は現代文明の「実学」思想と福沢諭吉の近代教育の視点原則を提示する。 著者は、自律と独立が福沢の教育思想の基本的な内容であり、独立した個人は、彼が新しい国家機関の構造を与えるその基本単位に基づいて、独立した国の基本単位を述べる。そして福沢諭吉は日本の考え方を変えた。 藤田友治 (2002)は 4 つの部分を提示する:①福沢諭吉の「実学」思想、③福

美耶子のように、藤田友治は、福沢の教育的見解が独立と自尊心の精神を伝えることを発見した。そして、「自由と言論を尊重する」という考えを伝る。

小林加代子(2019)は丸山眞男の福沢理解の誤認を分析することと「実学」思想を中心に福沢諭吉の学問観再検討する。

1.2 ベトナム学者の先行研究

Nguyen Viet Phuong(2011)は福沢諭吉の教育思想を研究する『学問のすゝめ』における関係する研究である。研究は、『学問のすゝめ』における福沢諭吉の教育思想に焦点を当てて、4 つの部分に分かれている。Nguyen Viet Phuong は福沢諭吉の教育思想の 3 つの主要なポイントを特定した。「実学」思想、西洋の科学的精神教育、そして「西洋との交流の過程で選択する能力」である。しかし、

「実学」思想関するパートでは、著者は「実学」思想の定義を明確にしておらず、この思想の表現と例のみを示している。

の学位論文の一つである。

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Duong Thi Nhan(2012)は福沢諭吉の教育思想である重要な問題を、教育目的、教育行動の原則、教育内容、および彼の教育方法などの優れた内容で議論することに焦点を当てている。 論文は、福沢諭吉の教育思想の影響を日本社会に示した。 しかし、「実学」思想は、論文では明確にされていない。

Dinh Quang Trung(2015)は福沢諭吉の教育思想を包括的に理解することを目的として 2 つの大きな章に分かれており、それによってベトナム教育の包括的な改革のプロセスのための教訓を引き出している。著者は、福沢諭吉の教育思想を形成する過程である人々について学び、次のような教育改革過程におけるベトナムの経験について言及した。①「適切な教育哲学」を構築する必要がある。②世界の教育を学ぶときは、選択的で創造的であり、固定観念や独創性を避ける必要がある。③自然科学工学と社会科学および人文科学の間で、リテラシーと人間になることを学ぶことを調和的に組み合わせた包括的な教育。④留学生のための具体的な戦略、つまり才能を評価する方針が必要。福沢諭吉の教育思想の議論の中で、著者は、「実学」思想に言及したが、著者は「実学」思想を誤解し、議論に誤りを犯している。

Luu Thi Yen(2015)は 福沢諭吉の教育思想を明らかにし、ファン・ボイ・チャウの教育思想との意味を分析することを目的に、論文を 3 章に分けている。 著者は、福沢諭吉の生涯と教育思想の形成過程を明らかにし、「実学」思想に言及した。 しかし、作者にはまだいくつかの欠点がある。「実学」思想の定義をまだ与えておらず、『学問のすゝめ』に含まれる証拠で「実学」思想を説明するための例と表現を与えているだけである。

Nguyen Minh Nguyen(2016)は 4 章に分かれており、福沢諭吉の改革思想を明らかにすることを目的としている。そこから、日本の明治維新と 20 世紀初頭のベトナムの改修運動に対するその価値を評価し、土地の更新過程におけるベトナムへのいくつかの提案を行う。この論文は、福沢諭吉の改革思想と、教育、国家、外交における日本とベトナムに対するその思想的価値を体系的かつ包括的に再評価する。著者が福沢諭吉の教育思想について書いている部分に焦点を当てていることを注意する。最初の行から、著者は常に非常に詳細な方法で「実学」思想に

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取り組んできた。遠方から近方を背景に、作者は「実学」思想の発祥地を探り、

『学問のすゝめ』に含まれる「実学」思想を持って福沢諭吉にたどり着く。しかし、作者にはまだいくつかの欠点がある。「実学」思想の定義をまだ与えておらず、『学問のすゝめ』に含まれる証拠で「実学」思想を説明するための例と表現を与えているだけである。

Nguyen Thi Han Thy、Nguyen Viet Phuong(2020)は、福沢諭吉の「実学」思想の重要な内容を説明することを目的として 3 つのパートに分かれており、著者は最初に、オープンで「実学」・「実業学」という教育を構築するためのいくつかの参照意味を概説する。基本的に、この記事の内容は 2011 年のグエン・ヴィエト・フォンの論文の内容と似ている。著者は、福沢諭吉の教育思想を一般的に分析せず、「実学」思想のみを分析する 2011 年の記事とは異なる。しかし、この分析には、最初に「実学」思想の定義を与えるが、福沢諭吉の定義ではなく、

『学問のすゝめ』に含まれる証拠によって「実学」思想を説明するための例と表現を与えるだけであるという点で、より多くの誤りがある。

2 未解決問題

以上のように、福沢諭吉のベトナムでの教育思想に関する研究には、福沢諭吉の教育思想の誤解、福沢諭吉の教育思想の重要な点の欠如、「実学」思想が誤解されており、完全ではない理解などの問題がある。これらの問題については、すべての問題を分析するため、第五章でさらに詳しく説明る。小林加代子の「実学」思想をより明確にし、適切な定義を述べるために、著者の理解を使用する。

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第三章 福沢諭吉と『学問のすゝめ』

1 福沢諭吉

日本では、1 万円札ごとに福沢諭吉の肖像画が見られる。これは、西洋の制度やアイデアを日本に持ち込むという福沢諭吉の貢献を公式に認めたものだ。しかし、なぜそのような男性が日本の伝統的なローブを着ているのか疑問に思う人もいるかもしれない。福沢の写真はたくさんあるが、服を着ている写真はほとんどない。これは彼の基本的なスタンスを反映しているようだ。彼は常に精神的な革命を強調し、西洋の偽りの模倣ではなかった。

福沢は最初にオランダ語を学び、次に英語に切り替えた。明治維新(1868)以前は、2 回アメリカを訪れ、1 年近くヨーロッパを旅した。

これらの旅を通して、彼は西洋の現代社会の発展の基本的な「石と柱」を認識することができた。そこで、彼はまた彼の明白な運命を提案した:教育とジャーナリズム。

二度目の航海の直後に、彼は慶應義塾を設立し始めた。そして、それはビジネ

ス 、 産 業 と 政 治 で 多 く の 才 能 の あ る 卒 業 生 を 生 み 出 す こ と だ っ た 。 二度目の航海から間もなく、慶應義塾大学を設立した。また、ビジネス、産業、政治の分野で多くの才能のある卒業生を輩出してきた。

福沢諭吉は、新興の近代学校向けに多くのパンフレットや教科書を発行し、他のさまざまな読者に人気があった。これらの作品の最大の魅力は、斬新なテーマだけでなく、シンプルで革新的なスタイルでもある。

福沢諭吉はまた、学者のために多くの本や記事を書いている。これらは主に大学の新聞と 1882 年に最初に発行された新聞を通じて発行された。

それ以来、福沢は、政治、国際情勢、経済・金融問題、教育政策、女性の権利、倫理など、現代のさまざまな問題について数多くの記事や漫画を書いてきた。

要するに、福沢諭吉のテーマは「独立」である。福沢諭吉は個人と国家の独立が現代西洋社会の真の基盤であると信じていたからだ。この独立を達成するために、福沢は伝統的な中国の本の研究ではなく、西洋または実践的な科学の研究を

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提唱している。教育を受けた人々が多ければ多いほど、人々の独立を主張することができ、彼らの公徳と社会的道徳はより良くなる。

福沢諭吉は西洋の思想家から多くのことを学んだようだが、彼は盲目的に西洋文明に取りつかれていない。福沢諭吉はこの欠陥に精通していたが、西洋文明は日本よりも技術的に優れていることに気づき、日本はこれを例として使用できると結論付けた。しかし、福沢諭吉は仲間の市民の心を改革することによってもたらされる困難を予見していたようだ。

1.1 福沢諭吉の生涯

大阪の武道家に生まれ、中津で育ち、現在は九州の大分県に住んでいる。彼は家族の中で 5 人兄弟の末っ子だ。父は中曽志の武道家、福澤百助だ。福沢諭吉の父は純粋な儒教徒だった。福澤百助は常に儒教の見方に従い、子供たちに「屋漏

福沢諭吉が非常に厳格な儒教の養育を受け継いだことを証明してください。厳格な父親に加えて、福沢の母親は子供を愛するモデルの母親でもある。父親は誰にも言わずに早く亡くなり、母親は夫のために子供たちの世話をした。しかし、兄弟たちは懲らしめられ、きちんとしていて、恋をしていた。

15 歳の福沢諭吉は村の学校に通った。福沢諭吉は儒教の教育を受けた。彼は儒教を 5 年間しか勉強していないが、歴史に堪能で、「四つのこと」、「五経」、「老子」「荘子」、「歴史」、「漢修前後」、「黄金の本」、「五経」などを読んだ優秀な学生だ。

さらに、余暇には儒教の見方を先生と話し合っている。儒教の視点を研究して、彼の考えはすぐに儒教の古い価値観、昔ながらの、堅固で機械的な考え方を再考するという考えを形成した。彼は封建社会の不公正が数百年前の儒教の秩序と同じ社会秩序を課していることに気づきた。

19 歳に、儒教の環境を離れて長崎に行くことにした。日本南部の九州の島にある港だ。贅沢な都会の生活は彼を魅了した。福沢諭吉が最初に横書きを見たと

8 『福翁自伝』、福沢諭吉

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き、彼は本当に興味があり、とても興味を持っていた。すぐに彼はオランダの研究を研究するのだろうか(オランダの研究、医学の研究、数学、物理学、化学、生物学などの西洋の科学 大阪でオランダ語で書かれた本)。

25 代に入った福沢諭吉は東京を訪れ、幕府が西洋船の出入りのために開いた横浜港を訪れた。ここでは、「其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分らなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字と云うものはな

を学ぶ」ことは時代遅れであり、今日の高齢では使えないことに気づき、英語を学び始めることを決心した。「今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左すればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚も

で、自分で学び、クラスメートを見つけるために辞書に頼ることしかできなかった。オランダの研究と日本でまだ普及している研究の文脈では、この見方は当時と比較して非常に進歩的な考えを表してる。

一年後の 1859 年、西部を探索することに情熱を傾け、彼はアメリカに旅行することを決心した。私は彼に召喚を待たずに船長に行くように言った。アメリカの福沢諭吉からの温かく思いやりのある歓迎は、ある驚きから別の驚きへと変わった。彼に最も深い印象を残した習慣は、女性を尊重し、男性を軽蔑する習慣でした。日本では儒教の影響を強く受け、家族の階層について厳しいルールがあったが、アメリカでは男性が女性で家事や子供たちの教育を行い、シャンパンを飲む習慣があり、女性に花を贈る習慣もある。これはフィールドトリップであり、彼にとって多くの新しい知識を蓄積し、教育における彼の新しい考え方の種を蒔きた。

代表団によると、福沢諭吉はたまたま 1860 年に翻訳者として派遣された。政府が米国に来た後、福沢諭吉はサンフランシスコとハワイに行った。 2 年後の

1862 年 1 月 22 日、日本の代表団は、地理的な距離と時間で将軍の最長の航海の

9 『福翁自伝』、福沢諭吉

10 『福翁自伝』、福沢諭吉

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ためにオーディンに乗り込んだ。同時に、福沢諭吉は彼の日記に最初のグループを書き始めた。それは後に「西洋事情」として出版された。

船はシンガポールの香港に停泊し、紅海に入り、フランスのマルセイユ港まで電車で行き、リヨンまで行き、次にパリとイギリスまで行った。英国からオランダ、首都ベルリン、サンクトペテルブルク、サンクトペテルブルクに到着した。その後、彼はフランスからパリに戻り、ポルトガル行きの船に乗り込み、地中海に入り、1862 年の終わりまで日本への古いルートを辿った。すべての旅行は本当の経験であり、彼が踏むすべての土地は彼に異なる経験と感情を与えた。福沢諭吉にヨーロッパの科学、産業、政治、ビジネスの基礎を与えたのはこれらの旅だった。

特にこの決定的な旅行の間に、福沢諭吉は教育の特に重要な役割が「国を豊かにし、軍隊を活性化させる」ことであることに気づきた。「富国強兵」をスローガンに、現代日本のトップになるための重要な目標だ。

1867 年 1 月、福沢諭吉は幕府の代表団と一緒に船を購入し、この旅行中に彼は為替レートを調整し、より多くの港の開設を交渉するために再びアメリカの都市を訪れた。しかし、両方の交渉は失敗した。翻訳者として、福沢諭吉は病院、兵器庫、鉱山、学校などの機関で多くの新しいことを観察した。福沢諭吉は、科学技術の進歩が西洋に繁栄をもたらす上で重要な役割を果たしていること、そして人々の考え方や認識の革命的な変化が日本の近代化の最も基本的な要件であることを認識した。このような理解は、福沢諭吉の思想に前向きな変化をもたらし、特に新しい教育思想や全体思想の形成を促進する役割を果たした。

上記の 3 回の旅行を通じて、福沢諭吉は文明と世界の主要先進国に関する豊富な知識にアプローチした。これは彼の世界観の新しい方向性を開き、福沢諭吉に国際舞台での日本の位置についてのより良い理解を与えた。幕府末期から明治時代への移行期に西洋諸国を旅することは、福沢の日本史における役割の決定的なターニングポイントだった。

福沢諭吉は、知識と意識を持って本を書き、翻訳することに注意を向けた。江戸幕府の崩壊後、政府は福沢諭吉を県に招きましたが、彼は断固として拒否し

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た。福沢諭吉は巧妙に中立の道を選び、政治についてだけ話し、政治に干渉しなかった。

1868 年、福沢諭吉は現在の慶應義塾大学の前身である慶應義塾大学を設立しました。

1973 年に、多くの西洋の知識人と一緒に、福沢諭吉は森有礼明六社を設立した。この協会は、政治、教育、経済法など、国内の多くの未解決の問題について執筆、翻訳、講演を行い、議論している。

1900 年、福沢諭吉は、特に教育において、日本の発展に多大な貢献をしたことで皇室から賞を受賞した。ボーナスは 5 万円相当。しかし、彼はすべてのお金を慶應義塾大学に返した。

反省をしている。これは、何よりも自由、言論を重視したからに他なりない。 今日,「演説」は一般に広く行われているが、明治維新後、英語のスピーチを

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治7(1874)年 6 月 27 日に発会式を行い、明治 8(1875)年 5 月 1 日には、義塾内に三田演説館を開館している。

福沢は演説において独立論を熱心にといている。「できるかぎりは数理をもとにして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕ちょいとした話

するのには理由がある。東洋、日本と西洋国を比較すると、東洋に欠けているものは二点あると西洋諸国を巡行した経験からいうのである。

「さて国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れ東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来れば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独

兵・殖産興業政策をなしたわけだが、どうしても東洋、日本の独立心が弱い現状が冷静に見てあったののだろうか。数理学を含め、この二点を教育することで、日本を救おうと決意していたのである。福沢の教育方針は数理と独立を教えること、これにつきるのだろうか。「元来私の教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの 2 つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ

明治 4(1871)年 7 月に文部省が設置され、翌年 2 月に福沢の『学問のすゝめ』初編が刊行される。8 月に「学制」が領布され、人民の八年制義務教育を目ざしている。このタイミングは冒頭に福沢の影響力の大きさをのべた「文部省は竹橋に在り、文部卿は三田に在り」の言葉通りのだろうか。

福沢の『学問のすゝめ』初編にいう学問をすることによって「貴人となり富人となる」と個人の立身出世をとくのだが,「学制」、つまり近代的な国民教育制度の教育理念とは通底している。「学制」の教育理念を明示した太制官布告「学事奨励に関する被仰出書」は身分的差別を否定し、日常生活に有用な「実学」を奨

14 『福翁自伝』、福沢諭吉

15 『福翁自伝』、福沢諭吉

16 『福翁自伝』、福沢諭吉

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励している。さらに、学校に行くことにより立身出世や事業繁栄の土台となるという福沢のいう個人主義、功利主義の理念に立脚している。

さらに,「必ず邑に不学の戸なく家に不 学の人なからしめん」 と子弟を就学させるよう要請している。「学制」第 21 章も「必ス学ハスンハアルヘカラサルモノ」と半強制的に奨励している。本来の教育の 理念からいえば、個人の自由、自主、独立の精神に立脚し、自由意志によって教育が なされるべきである。福沢の独立の精神に照らしても、「学制」=「被仰出書」の教育方針の個人主義によっても、強制的義務教育の理論は矛盾である。

個人の自由意志による教育と国家による、国家のための教育とは本質的矛盾を

内包 しているが、従来の研究では「学制」期において福沢の『学問のすゝめ』の「一身独立して、一国独立する」という有名な定式によって一方が他方の手段としてではなく、無媒介に直接的に「個人の開花と国家の富強とは一体のものとして把握されていた」17というのである。

明治政府による「国民」(実質上は「臣民」としての天皇制支配下であることに留意)としての義務に納税、徴兵制、さらに「学制」の義務教育が加わるのだ。欧米 列強と比較すればわかるように、日本は遅れて出発した資本主義国であり、資本の本源的蓄積もなく、国家による「上からの資本主義」の形成期でした。殖産興業をおこすにしても労働者の教育水準を高める必要があり、富国強兵をなすにも、各藩による方言によって命令、伝達もうまくいかない状況では、半強制的,「強迫教育」(不就学 の自由の否定)が必要とされた必然性がある。 「強迫教育」とは納税・兵役・就学の三大義務の一つとして、各学校の出席率

をあ げるために児童が「毎日 5 分間の登校を命令」されたり、教師はもとより、警察官、 水道吏員、清掃吏員まで動員して出席を強要していた。人民の要求によって近代公教育制度が確立したのではなく、国家による上からの命令によって、「学制」としての「臣民の教育」が強要されたわけだ。しかし、この矛盾は、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が内包している矛盾でもあった。一方で平等な人間として「生まれな がら貴賊上下の差別なく」、「天は人の上に人を造らず人

17 佐藤秀夫「近代教育の発足」(講座『現代教育学』5<日本近代教育史>、岩波書店、 1962 年所 収、30 頁)と金子照基『明治前期教育行政史研究』(風間書房、1967 年、45 頁)による。

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の下に人を造らず」であるわけだ。しかし、「といえり」と間接的に接続させて、この人間世界をみると、実に貧富の差、貴賊の差があり、「その有様雲と沢との相違あるに似たるは何ぞや」と問い、「学問の力」こそが決定的であるととくのだ。「無学なる者は貪人となり下人となるなり」、「およそ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず」、かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なれば、ただ威をもって畏すのみ」とまでいうのだ。もとより、「この人民ありてこの政治あるなり」であり、愚民であってはならないと啓蒙を福沢はしているのだ。けれども、「強制教育」である。

今日、福沢の『学問のすゝめ』と「学制」のもつ意義はその内包する矛盾にもかかわらず、高い意義をもっている。文明開化、識字率の高さ、近代国家としての日本 の歩みにおいて大きく貢献してきたことは間違いない。その後の日本の公教育の歴史は、福沢の自由、独立、立身出世さえも個人主義的と否定されてしまう。近代学校制度の確立期にあって森有礼初代文相によって、教育は「生徒其

う。個人原理に立脚するのではなく、従って国民に教育権があるととらえるのではなく、国家の為の教育、「公」教育が、国家主義として強調されてくるようになる。ここで内包していた矛盾が露呈してくるようになる。

福沢の『学問のすゝめ』初編では「無学なる者は貧人となり」と主張していたが、無学であるから貧人となったののだろうか。逆に、因果関係が転倒しており、貧しい故に、「無学」とならざるを得なかったのではないか、という問題がある。福沢はベスト・セラーとなった『学問のすゝめ』にいう「無学なる者は貧人となり」という因果関係の転倒を空論として否定するようになる(『家庭叢談』第 24 号、1876 年)。さらに、無学故の貧困ではなく、貧困故に無学(不就学)になるのであるという事実を認識し、1884 年「貧富論」になると、積極的に貧困こそ無知の原因であると唱くようになる。福沢は「福沢氏古銭配分の記」

為の教育であるならば教育の無償制を構想しなければならないが、義務教育であっても有償であ り、矛盾であった。

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において自分の子女に「遺言」風に重要なことを記しており,「世々子孫、福沢の血統、孜々勉強して自立自活、能く家を治む可きは言ふまでもなきことながら、万一不幸にして財に貧なるの憂あるも、文明独立の大義を忘れ、節を屈して

福沢諭吉は下級武士の子に生まれ、しかも早くして父に死なれ貧困の中で育っ

た過 去をふり返り,「貧士族にして余財あることなし」ながら、父の楽しみの

「古銭」を「宝物」として子、孫に伝えよと申している。ここでは「古銭」ですが、本当に言いたいことは独立自尊の精神そのもののあり様を教育し、それを伝えたいと思ったののだろうか。福沢は「一片の独立は生命より重し、之を妨げん

だ。この何よりも強調した独立をなすために教育が大切であるとするわけだ。 福沢の教育論は高弟の小幡篤次郎たちや、長男の一太郎等によって一層、鮮明になって福沢の「修身要領」として明治 33(1900)年 2 月に発表される。福沢自身は脳出血の大患によりようやく退院してきたわけだが、福沢の教育論を最も要領よくまとめている。ちょうど、親鸞の教えを唯円が『歎異抄』においてエッセンスを搾り出したが如くである。「修身要領」は第 1 条から第 29 条まであるが、大半は「独立自尊」の精神をさまざまな場面に応じて展開しており、「独立自尊」がキー・ワードとなっている。

第1条に「人は人たるの品位を進め、知徳を研き、……(中略)吾党の男女は、独立自尊の主義を以て修身処世の要領と為し」といい、第2条に「心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と示ふ」とする。個人の生活の自立から、自己の進退、男女関係、家族関係、友人関係、さらに国家間の関係にまで独立自尊をといている。第 26 条に、地球上の立国の「独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり」と批判している。「教育の目的」に西洋諸強国の侵略を批判し、何よりも独立の大切さをのべたのだ。「教育は即ち人に独立自尊の道を教へて之を

19 『福沢諭吉選集』第 10 巻、岩波書店、1981 年

20 『福沢諭吉選集』、329 頁

21 『福翁自伝』、福沢諭吉

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躬行実践するの工風を啓くものなり。」(第 38 条)と教育の目的、意義をとくのだ。

福沢の教育思想とは、福沢の思想の最も大切にしていた精神は何かを問うことと同義語であり、教育論が単独にあるのではなくて、福沢自身の思想そのものであることが,「修身要領」でわかる。

2 『学問のすゝめ』

『学問のすゝめ』初編は 1872 年 2 月(天宝暦明治 4 年 12 月)に初版され、

以降 5 年かけて(1872 から 1876 にかけて) 次々と出版されたが。その後の

1880 年において合本された。17 章が含まれている。内容は非実践的学習を批判し、実践的学習と「現実の学習」を考える独立した方法を提唱している。わかりやすい文章スタイルと豊富な内容は、読者にとって魅力的な作品になる。読者は、福沢諭吉のアドバイスと分析が、日本の将来にとって、人生にとって非常に有用で実用的であると感じられる。そのため、この作品は多くの世代の日本人にとって一度は読むべき本になった。『学問のすゝめ』という作品は、教育における教育の役割と位置についての意識の変化に与える影響において最も顕著な意味を持っている。この作品は、すべての世代の日本人、特に、将来日本を変えると

がら、明治維新の動乱を経て新しく開けた新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の知識人の気概に満ち、当時の日本国民に広く受容された。おそらく近代の啓発書で最も著名で、最も売れた書籍である。最終的

には 300 万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が 3000 万人程であったから実に全国民の 10 人に 1 人が買った計算になる。

ベトナムにおいて、ファム・フー・ロイ(Pham Huu Loi)が翻訳したベトナム語版「Khuyến học」である。2020 年 12 月、ニャ・ナム(Nha Nam)出版社は、会社設立の 15 周年を記念して、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の特別版を再発行することを発表した。そして、2021 年 4 月 26 日に発行されたカバーデザインに変更が加えられた 2021 年版がある。発売以来、読者の絶え間ないニーズに応えるため、毎年『学問のすゝめ』を再発行している。

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Nha Nam が『学問のすゝめ』を選んだことと、『学問のすゝめ』が何年にもわたって何度も再版されていることは、ベトナムにおいて『学問のすゝめ』が大きな影響力のある本であることを示している。最も著名なのは若い読者であり、将来の主要な人材である。

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第四章 『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミスとその影響

使用しているベトナム語版は 2021 年に、ニャ・ナム出版社に努力する(The Gioi)出版社によって発行され、ファム・フー・ロイ(Pham Huu Loi)(この章では翻訳者])の翻訳版である。

ク版である。

ベトナム語版の本の説明によると、日本語版から直接翻訳されている。ただし、

『学問のすゝめ』の日本語版は初編・原作語と現代語訳がある。現代語訳いくつかのバージョンは異なる出版社からのものであり、最も一般的に知られているのはちくま新書, 岩波文庫、知的生きかた文庫。

ただし、ベトナム語版では、どのバージョンが翻訳に使用されていたかについて具体的には述べられていない。本論文は、原作語を使用する。

福沢諭吉の教育思想と「実学」思想を調べているとき、ベトナム語版の一部が静かに見えたり、取り入れにくい場合もあることに気づいた。たとえば、ベトナム語版では、 「Ếch ngồi đáy giếng coi Trời bằng vung」(ベトナム語版ページ 29)や「Dài lưng tốn vải, ăn no lại nằm」(ベトナム語版ページ 39)という文章はベトナムらしい表現だったので興味があった。日本語版が本当にこんな意味かどうかを知るために『学問のすゝめ』初編を調べた。 そして、この章で分析するベトナム語版のいくつかの大きな問題を発見した。 そして、これらの間違いがベトナムの学者が福沢諭吉の教育思想と「実学」を分析する方法に与える影響を見ていく。日本語版とベトナム語版の両方を同時に注意深く調べて読んだ後に特定できるいくつかの間違いを分析して示す。

1 『学問のすゝめ』のベトナム版における翻訳ミス

① 「 ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。」

22 ソース: 青空文庫 Aozora Bunko

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「Vì thế, học giả, quan chức chính phủ, giám đốc các công ty lớn, chủ trang trại sử dụng nhiều nhân công… là những người có địa vị cao, quan trọng.」(ベトナム語版 25 ページ)

この文では、「医師」という言葉は欠如されている。ベトナム語で「医師」は

「bác sĩ」であり、もちろんこの言葉はベトナム語訳には出てこなかった。

②「これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。」

「 Đọc các tác phẩm văn học cũng là để động viên an ủi lòng người, như thế chẳng phải là môn học có ích cho cuộc sống đó sao? Nhưng tôi không nghĩ rằng văn học

là môn học quan trọng đến mức “phải thờ phụng nó” như các thầy dạy Hán văn,

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次に、翻訳者が「分限」を「vị trí, chỗ đứng」に翻訳した。「分限」の意味は四つがある①持っている身分・才能などの程度、身のほど、分際、ぶげん②財産・資産のほど、財力また、財力のあること、金持ち、ぶげん③公務員の身分に関する基本的な規律、身分保障・免職・休職・転職など④ある物事の可能の限度。また、その能力や力である。日本語で「vị trí, chỗ đứng」は「位地」や「位置」という意味である。これは「分限」の翻訳には不適切な単語の選択である。さらに、

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という福沢諭吉の奨励する思想に反している。福沢諭吉はすべての人の平等を主張しているので、人は自分の場所を知って、自分のためにもっと良いものを欲しがるのをやめるべきだと言うのは間違っている。

④ 「人の天然生まれつきは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。」

「 Kể từ khi sinh ra, con người không phải chịu sự can thiệp của bất cứ một ai Nam cũng như nữ đều có quyền tự do sinh sống Và đúng là con người có quyền tự do, nhưng lúc nào cũng khăng khăng đòi phải được làm theo ý muốn của riêng mình mà không biết rõ vị trí của mình thì sẽ trở nên chỉ biết có mình, cho riêng mình Như thế là tự mình làm hỏng mình.」(ベトナム語版 28 ページ)

ベトナム語版は、「Như thế là tự mình làm hỏng mình」を除いて、メッセージの翻訳と理解の両方が通じた。この文は、「これは自己破壊的な行動です」と日本語に翻訳することができる。翻訳者がこの文を翻訳するとき、「放蕩」だけを翻訳し、「わがまま放蕩」というフレーズ全体は翻訳しないようである。「わがまま放蕩」の意味は気にしないで勝手に欲に落ちることである。ベトナム語版では、

「tự」という単語の意味が少し異なる。この単語は、ある人が自分の意志で何かをすることを意味する。 ベトナム語版と日本語版が違う部分である。

⑤ 「すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。」

Ngày đăng: 20/07/2025, 22:11

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