日本語は世界で話されている諸言語の一つです 。つまり日本語も人間が使っているコトバの一員であるわけです から 、日本語の特質をできるだけ一般的にとらえようとするならば 、コトバがそもそもどのような性質をもったも のなのかを知っておく必要があります 。そうでなければ 、日本語の使い手が自分だけの立場から眺めた 、どうにも 偏った日本語の特徴だけしか見えてこないことになって
Trang 3編 者 の こ と ば
日本語および日本語教育に対する関心の高まりとともに
、日本語のしくみそのものを深く追求しようという試み
も
、これまでにも増してさかんに行われるようになりました
。従来の日本語研究は
、どちらかと言えば日本語の歴
史に重点が置かれる傾向にありましたし
、現代日本語についても
、英語をはじめとする欧米の諸言語をもとにして
開発された考え方を
、そのまま日本語に当てはめようとする姿勢が強かったことは否めません
。
しかし最近では
、言語学や情報科学の進展に伴って
、人間が使っていることばとは一体どんな性質をもつもので
あって
、そのような性質が日本語という個別の言語にどんな形で現れているのかという
、一般的な視点からの分析
が行われるようになりつつあります
。このような見方は
、日本語の特殊性をいたずらに強調したり
、逆に欧米の言
語だけからことばの一般性を引き出してそれを日本語に対して無批判に適用したりするという
、人間のことばの本
質を無視した方法を鋭く批判するものでもあります
。そしてそのことによって
、人間のことばとしての日本語の正
体がより鮮明に浮かび上がってくることが期待されるのです
Trang 4日本語は世界で話されている諸言語の一つです
。つまり日本語も人間が使っているコトバの一員であるわけです
から
、日本語の特質をできるだけ一般的にとらえようとするならば
、コトバがそもそもどのような性質をもったも
のなのかを知っておく必要があります
。そうでなければ
、日本語の使い手が自分だけの立場から眺めた
、どうにも
偏った日本語の特徴だけしか見えてこないことになってしまうことになりかねません
。
コトバの特性がどんなものなのかを究明しようという目的をもった学問が
﹁言語学
﹂です
。ですから
、日本語を
分析しようとする人
、日本語を外国語として教えようとしている人が
、本当の意味で広い視野に立って日本語を知
るためには
、言語学を勉強することが是非とも必要だと思います
。
さて
、コトバの特性とは何かという問題ですが
、これを知るためには
、いろいろな言語の多様性のほうばかりに
目を向けているのでは不十分です
。外国語を一つでも学んだことのある人であれば誰でも
、ある一つの外国語で言
われたり書かれたりした文章を
、別の外国語に翻訳することができることを知るはずです
。そして
、コトバの最も
重要な働きは
﹁意味
﹂を伝達することなのであり
、文章が何らかの意味を表していることは疑い得ないことです
。
ということは
、同じ意味をそれぞれ異なった言語で表すことができるということなのでして
、意味の伝達がコト
バの最重要の目的であり
、意味なくしてはコトバの存在理由がない以上
、コトバというものは本質的に共通の特徴
はしがき
Trang 5ると分析の際に脇に置かれてしまう傾向があったように思います
。
しかし
、音にしろ単語にしろ文にしろ
、コトバを構成している要素の性質を定義し
、その性質がどこに由来する
のかを満足する形で説明しようとすれば
、コトバの本質である意味を表すという特徴に立ち返らないわけにはいき
ません
。そうしなかったからこそ
、コトバにこれこれこういう特徴があるのは
、もともとそうなっているからなの
だ
、それ以上のことは考えても仕方がないんだ
、というような
、事実を提示するだけの納得できない言語学説が繰
り返し現れることになっていたのではないかと思えてなりません
。
このことから本書では
、コトバが表す意味とはそもそも何なのか
、という難しいけれども逃げて通りすぎるわけ
にはいかない問題を出発点として
、コトバの特性を解明していこうという立場をとっています
。そして最終的には
、
表面的には音も単語の作り方も
、単語の並び方さえもかなり違って見える世界の諸言語が
、どうして同じ意味を表
すことができるのだろうかという
、コトバの多様性と普遍性についての根本的な問題を解決することを目指してい
ます
。
そしてその過程で皆さんに
、コトバにはどうして単語があったり
、単語がいくつかの品詞に分類されたり
、単語
の並び方に決まりがあったりするのかという
、誰もがコトバに対してもつであろう素朴な疑問に対する解答を示し
ていくつもりです
Trang 6の究極の目標であるコトバの本質的な特徴を見極める力を養うことです
。
コトバの本質がどんなものなのかが身についていれば
、日本語というものの正体についても理にかなった見通し
をもつことができ
、日本語を教える場合にも
、学習者を惑わすことのない解説ができるはずだと確信します
。本書
がそのような意味でも役に立つことを著者として希望しています
。
最後になりましたが
、本書の執筆を薦めて下さり
、いつも暖かい助言と励ましを与えて下さった研究社出版部の
佐藤陽二さんに心からの感謝を捧げます
。
二
○
○一年初秋町田健
はしがき
Trang 7第 一 章 言 語 学 は 何 を や る の か
001
Q 1 言 語 学 は 一 体 何 を や る 学 問 な の で す か
?
002
Q 2 言 語 学 は 何 の 役 に 立 つ の で す か
?
018
■ 章 末 問 題
026
第 二 章 言 語 学 の 考 え 方
Trang 8vii 目 次
第 三 章 音 と 単 語 の し く み
085
Q 5 英 語
は
﹁ ツ ァ イ ム
﹂ の よ う に 聞 こ え る の で す が
、 タ イ ム
﹂ で は な い の で す か
?
086
Q 6 ど ん な 言 語 に も 単 語 は あ る の で す か
?
093
Q 7 名 詞 は
﹁ モ ノ の 名 前
﹂ だ と 教 わ る け れ ど も
、 そ れ は 本 当 で す か
?
104
Q 8
﹁ た こ 焼 き
﹂ と
﹁ い か 焼 き
﹂ は 似 て い る け れ ど も
、 よ く 考 え て み る と ず い ぶ ん 違 う
。 ど う し て こ
ん な 言 い 方 が で き る の だ ろ う
?
125
■ 章 末 問 題
137
第 四 章 文 法 と 意 味 の し く み
147
Q 9 ど ん な 言 語 に も 単 語 の 並 び 方 の 決 ま り は あ る の で す か
?
148
Q 10
﹁ 太 郎 は 学 生 だ
﹂ の 意 味 と は 何 だ ろ う
?
162
Q 11
﹁ 明 日 雨 が 降 る だ ろ う
﹂ の
﹁ 降 る だ ろ う
﹂ は 未 来 形 で す か
Trang 9第 五 章 言 語 と 人 間
197
Q 13
﹁ さ っ き 食 事 を す ま せ ま し た
﹂ と 言 っ て
、 差 し 出 さ れ る 食 べ 物 を 断 る こ と が あ る の は ど う し て だ
ろ う
?
198
Q 14
﹁ 夫 が 妻 に 手 を 上 げ た
﹂ が
﹁ 夫 が 妻 を な ぐ っ た
﹂ と い う 意 味 に な る の は ど う し て だ ろ う
?
205
Q 15 英 語
と ド イ ツ 語
は ど ち ら も
﹁ 手
﹂ を 意 味 し て
、 発 音 も 似 て い ま す が
、 こ れ は
偶 然 で す か
?
213
■ 章 末 問 題
Trang 11言語学の目的
言語学は
、文字どおり人間のコトバを研究する学問です
。とは言っても
、人間が行う
知的な活動の大部分はコトバを使って行われるわけですから
、そういった活動の全部を
言語学が対象とすることはできません
。
たとえば人間は何をなすべきかとか
、人間は何を美しいと感じるのかといった問題
★
は
、普通は哲学とか美学の対象となります
。あるいはこれまで人間はどんなことをやっ
てきたのかとか
、人間の社会のしくみはどうなっているのかなどというのは
、もちろん
歴史学や社会学
、経済学などが研究する分野です
。
というわけで言語学がやろうとしている
、と言うよりやれることは
、そういう人間が
コトバを使って行っている複雑な知的活動の
﹁内側
﹂にある
、コトバそのものの基本的
しくみを探ることだということになります
。
コトバの基本的しくみ
、などと言ってもわかりにくいので
、まず最初にそれがどうい
?
★ 美 し い
﹂ と い う 形 容 詞 が 表 す 意 味
は 何 だ ろ う
、 な ど と い う こ と を 徹 底 的
に 知 り た け れ ば
、 美 学 が や っ て い る の
と 同 じ よ う な こ と を や ら な け れ ば な ら
な い か も し れ ま せ ん が
。
Trang 12003 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
か
。
澆コトバの単位はどういう方法で並べられているのか
。
潺コトバはどのようにして変化するのか
、そしてどうして変化するのか
。
潸コトバの用法や種類は
、コトバを使う人間とどんな関わりがあるのか
。
それぞれの項目の詳しいところは
、本書でこれから説明していくことになるわけです
が
、とりあえずは簡単に大体のところをお話ししておきましょう
。
漓コトバが伝達する
﹁意味
﹂とは何か
もともとコトバは
、人間が他人に何かを伝えるために出来上がったのだ
、ということ
は間違いないと思います
。その伝えられるべき
﹁何か
﹂というのも
、雨が降っている
﹂
とか
﹁私はおなかが痛い
﹂のような
﹁事柄
﹂だと考えていいでしょう
。
★
そして
、私たちの日本語では
﹁雨が降っている
﹂私はおなかが痛い
﹂などの表現が
表す意味というのは
、私たちがこれらを聞いて理解する事柄と同じだと考えていいで
しょうから
、こういう表現の意味はそれが表す事柄だと見なすことができます
で す が
、 要 す る に
﹁ 文
﹂ の こ と で す ね
。
Trang 13言い換えることができるかどうかということです
。
今考えているような事柄であれば
、多分どんな言語でもなんらかの方法で言い表すこ
とができるでしょうから
、できればなるべく一般的な形で
、事柄を表現するための方法
を作り上げることが求められます
。そして何より人間のコトバは
、事柄を伝達するため
に使われるというのが一番大切な性質なのですから
、事柄の表し方のことをきちんと考
えておかなければ
、それ以外のいろいろな性質を明らかにしていく際に
、あれこれとい
い加減な部分を残してしまうことになりかねません
。
それから次には
、今の
﹁雨が降っている
﹂という文の中にある
、雨
﹂とか
﹁降る
﹂
さらには
﹁が
﹂とか
﹁ている
﹂のような表現
︵ 大 体 の と こ ろ は
﹁ 単 語
﹂ と 言 わ れ る も の で す
︶
が
、どんな意味を表しているのかということが問題になります
。雨
﹂の意味は
、 もち
ろん事柄ではありませんし
、降る
﹂の意味は事柄に近いですが
、何が降るのかはわか
らないわけですから
、普通の事柄と全く同じだということは決してありません
。
ということは
、雨
﹂や
﹁降る
﹂の意味は
、雨が降っている
﹂の意味とは違う性質を
もっているということなのでして
、それでは
﹁雨
﹂や
﹁降る
﹂の意味は一体何なのか
Trang 14005 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
してしまいます
。雨
﹂
であれば
︵ rain
が 動 詞 に も な る と い う こ と は 別 に す る と
︶
、 一
応は同じ意味を表していると見てもよさそうです
。
ところが
﹁降る
﹂
では
、意味が同じだとはとても言えません
。fallには
﹁落ち
る
﹂倒れる
﹂ころぶ
﹂などの意味もあるわけで
を
﹁その
男の子は地面に降った
﹂などという日本語に置き換えることはとてもできません
。
﹁雨
﹂とか
﹁降る
﹂は
、言ってみれば一つの事柄の部分を形作っているわけですから
、
★
そういう事柄よりも一段低いレベルでは
、人間のコトバが表す意味に共通性があるとは
必ずしも言えないことになります
。というわけで
、こういった事柄の下に位置する表現
の意味は
、言語ごとにそれぞれ異なったものになります
。ですから
、雨
﹂や
﹁降る
﹂ の
意味はどのようにして決まってくるのか
、そしてその意味をどんな形で表したらよいの
か
、ということも問題にしなければなりません
。
滷コトバを作り上げている単位とその働き
コトバが伝えるものが事柄であるとすれば
、まずはその事柄に対応する単位が必要
で
、それは普通
﹁文
﹂と呼ばれています
。ですから
、どんなコトバにも文という単位は
、 雨
﹂
と rain
、 窓
﹂ と
の よ う に
、 ほ と ん ど 同 じ 意 味
を 表 す 場 合 も た く さ ん あ り ま す
。 要 す
る に 事 柄 の 下 の レ ベ ル で は
、 事 柄 と は
違 っ て 共 通 で な い 場 合 も 多 い と い う こ
と で す
。
Trang 15かという問題とも深く関わってきます
。
そして実際
、事柄とはこれこれこういう性質をもったものなのだ
、ということがきち
んと定義できていなければ
、それに対応するコトバの表現である文についても
、文とは
こういうものなのだ
、という定義もできないことになってしまいます
。
とは言え
、私たちが頭で事柄のことを考える時には
、どうしてもコトバを使うわけ
で
、となると文という形でしか事柄をとらえることはできないようにも思えます
。とい
うことは
、事柄そのものを純粋に
、コトバとは離れたところで規定しておくというの
★
は
、実際にはかなり難しい作業になります
。しかし
、コトバをできるだけ使わない形で
事柄を表現できるようにしておかなければ
、事柄とは文で表されるもののことです
、そ
して文は事柄を表すものです
、などという
、結局は何も明らかにしない定義をすること
になってしまいます
。ですからやはり
、事柄とは何かということを
、まずもってはきち
んと決めておくことが大切なことに変わりはありません
。
次には
、事柄を作っている部分としての
、モノやモノの性質
、モノの状態や動きなど
に対応する単位が考えられます
。さらにまた
、モノとモノの間の関係や
、状態や動きの
て い る 言 語 の こ と で す ね
Trang 16007 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
★
ん
。そしてその際には
、単語や形態素が表しているとされる
、モノ
﹂状態や動き
﹂
﹁モノとモノとの間の関係
﹂状態や動きの性質
﹂などを
、事柄の場合と同じように
、で
きるだけ普通のコトバを使わないようにして規定しておく必要がでてきます
。
それからまた
、単語がすべて同じ性質をもっているわけではないことにも注意しなけ
ればなりません
。モノを表す単語であれば
、表されているのが一つだけのモノなのか
、
それとももっと多くのモノなのかを区別することがあるでしょうし
、一つのモノでも聞
き手にもわかっている特定のものなのか
、それとも同じ種類の中でどれでもよいモノな
のかを区別したくなることもあるでしょう
。
動きを表す単語であれば
、その動きがいつ起こったのかとか
、その動きが今始まった
のか
、それとも動いている途中なのか
、もう終わりそうなのか
、などの
、動きの局面を
表すことが必要になる場合もあります
。
単語の性質が違うとなると
、その違いによって
、どの単語が他のどの単語と組み合わ
せられるかとか
、文を作る場合にどんな単語を必ず使わなければならないか
、などの特
徴が変わってくると考えられます
。
このことから
、単語の性質をもとにして
、単語を分類する必要が出てくるわけです
で
、 と り あ え ず は 一 括 し て
﹁ 単 語
﹂ と
い う 名 前 で 呼 ん で お き ま す
。
Trang 17語の性質をもとにした分類をしておくことは
、その前提として必要なことだと言えるで
しょう
。
澆コトバの単位を並べる方法
文を作っている単語
︵ や 形 態 素
︶は
、必ず一列に並べられます
。これを
﹁線状性
﹂と呼
★
んでいます
。文であれ単語であれ
、音に意味が結びついた実体であって
、これをソ
シュールは
﹁記号
﹂と呼んでいるのですが
、話し手から聞き手にコトバが伝達される時
には
、音が媒体となり
、音は必ず一列に並ぶようにしかできませんから
、コトバに線状
性があるのは当然です
。
ところで
、文を作っている単語がいくつかあるとして
、それらの単語の並び方はどう
でもいいというわけにはいきません
。たとえば
、太郎が次郎を見た
﹀という事柄を
、
﹁太郎
﹂次郎
﹂見た
﹂という三つの単語だけを使って表す言語があるとしましょう
。
その言語で単語の並び方に決まりがなかったとすると
、太郎見た次郎
﹂という文が使
われた場合
、この文が
︿太郎が次郎を見た
﹀という事柄だけを表すという保証はないこ
、 現 代 言 語 学 の
基 礎 を 作 っ た 人 で す
。 ソ シ ュ ー ル の 考
え に つ い て は
、 31 ペ ー ジ 以 下 を 見 て く
だ さ い
。
Trang 18009 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
違いがないようにしておかなければ
、そもそも伝達する価値がありませんから
、このよ
うな違いが出てくるのでは
、コトバが使われる一番大切な目的を実現できないわけで
す
。使われる単語の数がもっと多くなると
、単語の並び方に決まりがないのでは
、聞き手
の理解する事柄が
、話し手の意図したものと
、もっとずっと違ったものになる可能性が
出てくるのは容易に想像できます
。
そもそも聞き手は
、言われる単語を一つずつ聞いていきながら
、伝えられようとして
いる事柄を頭の中でだんだんと形作っていき
、文の最後の単語を聞いて
、はじめて一つ
の事柄を全体として理解するのだと考えられます
。となると
、今聞いた単語が
、伝えら
れようとしている事柄の中でどんな役目をもっているのかが
、できるだけ早くわかるよ
うなしくみになっておいたほうがいいわけです
。
単語の役目は
、今まで言われた他の単語が表す意味との関係で決めなければならない
わけですが
、どの単語とどの単語が関係しているのかを
、単語を並べる順番で決めてお
けば
、いちいちそれぞれの単語が表す意味の関係を考える必要はありません
。
たとえば
、日本語で
︿太郎がごはんを食べた
﹀という事柄を表すとしましょう
。単語
Trang 19しかし
、実際に何かを行った主体を表す単語のすぐ後に
﹁が
﹂を
、その主体によって
なんらかの作用を受けた対象のすぐ後に
﹁を
﹂を並べるのだ
、という決まりがあれば
、
﹁太郎が
﹂と聞いただけで
、ああ太郎が何かしたんだな
、ということがすぐにわかりま
すし
、ごはんを
﹂と聞けば
、ごはんに対してある動作が行われたんだな
、ということ
がやはりすぐにわかります
。
このように
、単語の並び方に決まりがあることによって
、伝えられようとしている事
柄の内容を
、早くそして正確に
、聞き手は理解することが可能になるのです
。ですか
ら
、どんな言語であっても
、それが事柄のできるだけ正確な伝達を目的としている限り
は
、単語の並び方には一定の規則性があることが要求されることになります
。
★
ただし
、言語によって単語の並び方にもいろいろな違いがあることはよく知られてい
る事実です
。ですから
、どんな言語がどんな並び方を示すのか
、そしてそんな並び方に
なっているのはどうしてなのかを記述し
、そして説明することが必要です
。
潺コトバはどのようにして
、そしてなぜ変化するのか
﹁ フ ラ ン ス か ら
﹂
は 英 語 で
と な っ て
、 こ
れ は
﹁ か ら フ ラ ン ス
﹂ と 言 っ て い る の
と 同 じ で す
。
Trang 20011 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
コトバの変化に関しては
、まず音
、単語
、意味などのそれぞれの側面で
、コトバがど
のようにして変化してきたのかを記述するということが重要になります
。ただし
、ある
言語が変化したということは
、少なくとも二つの時代について
、その言語の状態
︵ こ れ
を
﹁ 共 時 態
﹂ と 呼 び ま す
︶を比較することによって明らかになるわけですから
、それぞれ
の時代におけるその言語の共時態がきちんと記述できていなければなりません
。
一つの時代について
、言語の共時態を誰にでも納得できるように記述することが
、そ
もそも言語学が目標としている重要な項目なのですから
、二つ以上の時代についてそれ
を行わなければならないということであれば
、言語の変化を記述する作業は
、なかなか
に難しいものだということになりそうです
。
ただし
、音だけをとってみれば
、一つの言語で使われている音の数は数十個であるの
が普通です
。ですから
、使われていた音を決定するための資料が十分にあるのであれ
ば
、ある言語について
、音の変化を記述することは
、極めて困難だということはありま
せん
。
それに音は
、コトバの重要な要素ではありますが
、それだけで意味を表すわけではな
いという性質もあって
、変化する時には非常に規則的な性質を示します
。たとえば
、奈
Trang 21にどんな音が使われていたかを確定することは必ずしも簡単ではありません
。しかしと
にかく
、文献資料をもとにある時代に使われていた音を推定して
、それが別の時代にど
のような音へと変化したのかを記述することは
、少なくとも言語の変化について
、言語
学がまずは取り組むべき課題だと言えます
。
★
それから
、動詞や名詞の活用のように
、表す意味自体にそれほど大きな変化がない要
素については
、時代ごとの変化の様子を明らかにすることは可能です
。
そして音であれ活用であれ
、どうしてそのような変化が起こったのかを説明すること
も必要になります
。ある時代に使われていた音とか動詞や名詞の活用の方式は
、それで
十分に伝達の道具として機能していたわけですから
、特に変わらなければならない理由
はないはずです
。それなのにどうして別の音や方式に変わってしまったのか
、何か変わ
らなければならない理由でもあったのかを
、もし説明することができれば
、コトバの変
化そのものの理由を探るための大きな助けになることは間違いないと思います
。
文を作っている単語の並び方の決まりが変わる場合もあります
。これについては
、決
まりそのものを明らかにすること自体が難しい問題なので
、その変化となると
、記述す
、 名 詞 の 文
法 的 な 働 き に よ っ て 名 詞 が 活 用 す る 場
合 も よ く あ り ま す
。
Trang 22013 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
★
意味に関しては
、伝達すべき事柄そのものは人間にとって普遍的なものだと考えてい
いでしょうから
、事柄を表す文の意味の変化ということは問題にする必要はなさそうで
す
。
★
しかし単語の意味については
、日本語の
﹁いる
︵ ゐ る
︶
﹂が
、すわる
﹀という意味か
ら
︿
︵ 生 き 物 が
︶存在する
﹀という意味になったように
、同じ音でも表す意味が変わるこ
とがあります
。逆に
、いなか
﹀という意味は
、古語では
﹁ひな
﹂という単語で表され
ていましたが
、現在ではこの単語はほとんど使われることはありません
。つまり
、同じ
意味を古語と現代語では違った音で表すような変化が日本語に起こったということで
す
。単語のこのような意味の変化
、また同じ意味を表す音の変化は
、考えてみればどうし
ても起こらなければならないということもないように思われます
。いる
﹂は
︿すわる
﹀
という意味をずっと表し続けても
、日本語では別に不都合はありません
。存在する
﹀
という意味を表す単語としては
、古語には
﹁あり
﹂とか
﹁をり
﹂がちゃんとあったわけ
ですから
、それらの単語を押しのけて
﹁いる
﹂が同じ意味をわざわざ表すようにならな
ければ困るということもありません
、 そ
れ を な ん ら か の 形 で ど ん な 別 の 言 語 に
も 翻 訳 で き る と い う 事 実 を 見 て も
、 事
柄 そ れ 自 体 は ど ん な 言 語 を 話 す 人 間 に
と っ て も 共 通 の も の だ と 考 え て よ い と
思 い ま す
。
★ ひ ら が な が 作 ら れ た 頃
は wiru と 発
音 さ れ て い た の で し ょ う が
、 平 安 時 代
半 ば 以 降 は 現 在 と 同 じ よ う
と い
う 音 に な っ て い ま す
。
★ 同 じ 音 で
︿ 鳥 の 子 供
= 雛
︶ と い う
Trang 23です
。
とは言え
、どんな言語でもこのような単語の意味に関わる変化が生じていることは事
実なのでして
、となると単語の意味の変化はコトバにとって必然的なものなのだと考え
たほうがよさそうです
。ですから
、こうした意味の変化を説明することができれば
、や
はりコトバの本質に迫ることができるだろうと考えることができます
。
潸コトバを使う人間とコトバの用法や種類との関係
私たちはコトバを使って他人に事柄を伝達するのですが
、実際には
、コトバによって
表される事柄はひどく曖昧なものです
。たとえば
﹁今日は暑い
﹂という文が表す事柄に
しても
、正確な暑さがどの程度なのかはわかりませんし
、今日
﹂という日が一日中暑
いのか
、それともこの文が言われている時間帯だけが暑いのか
、などということについ
ても
、この文は何も伝えてくれません
。
もしそういう内容をできるだけ正確に伝えようとすると
、使わなければならない単語
の数が非常に多くなってしまって伝達に時間がかかります
。それに
、たとえ
﹁今日は午
Trang 24015 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
はやはり表せないことになります
。
要するに
、コトバで事柄を表そうとする限り
、どれだけ単語を使って詳しく表現した
としても
、表しきれない内容が出てきてしまうということです
。このことから
、コトバ
が表す事柄は本質的に曖昧でなければならないということになり
、聞き手の側でも
、コ
トバによって表された事柄を理解する時には
、表されていない内容を
、場面に合わせて
適当に補うことになります
。
つまり
、コトバの意味を理解する過程では
、話し手が意図していた意味を推測すると
いう作業がどんな場合でも伴うということです
。そしてそうでなければ
、たった一つの
事柄を伝えるためにも
、やたらに長い文を使わなければならないことになり
、私たちが
一定の時間内に使うことができる文の数が少なくなってしまいます
。ということは結
局
、限られた時間内に伝えられる事柄の数が少なくなるということで
、伝達の効率が大
幅に下がるという結果を招いてしまいます
。
このことから
、コトバを伝達する側でも
、聞き手が正確な内容を推測することを前提
とした表現が使われることになるわけです
。花子は甘い期待をいだいていた
﹂その言
葉を聞いて私の胸はふさがった
﹂のような
、いわゆる比喩的な表現がありうるのも
、期
Trang 25比喩的な意味はもともとの意味とどのような関係にあるのか
、ということが問題になり
ます
。
比喩的な表現ではなくても
、たとえば頼まれた仕事をした後で
﹁ああ
、疲れた
﹂と言
えば
、この仕事をするのは大変だった
﹂という意味を表すことがあります
。これもや
はり
、聞き手に対して文字どおりではない意味を推測してもらうことを要求している表
現だと言えます
。また
、相手に食事か何かに誘われて
﹁今日は用事があります
﹂と言え
ば
、これは相手が
﹁今日は私はご一緒できません
﹂という内容を推測することを期待し
ているわけです
。これらの文が表す文字どおりではない意味についても
、それがどのよ
うな過程で導き出されてくるのかを知ることは
、文の表す事柄の曖昧性が
、聞き手に
よってどのようにして話し手の意図する方向に限定されていくのかを明らかにすること
になるでしょう
。
コトバと人間との関わりについては
、他にも
、コトバが伝達する事柄以外の情報のこ
★
とが問題になります
。たとえば誰かが
﹁そげなこつはしりまっせんたい
﹂と言ったとし
たら
、この文の話し手が九州の出身であること
、それに
、この文がある程度改まった場
﹂ と い
う 意 味 で す
。
Trang 26017 Q1 言語学は一体何をやる学問なのですか?
そしてどのような場面で使われているかによって
、さまざまの異なった様相を示すのが
普通です
。
しかし考えてみると
、コトバというのは事柄を伝達する手段なのでして
、しかもその
事柄が本当にはどんなものなのかは
、聞き手が推測をして理解しなければならないもの
なのですから
、それが使われている社会の中では
、できるだけ均質的であるほうが望ま
★
しいのではないかと思われます
。いろんな異なった種類のコトバが一つの社会の中に混
在しているとすると
、その社会に属する人たちは
、そのいろんな種類のコトバを覚え
て
、相手や場面に応じて使い分けなければならないことになるわけですから
、コトバを
使う際の負担が増えてしまいます
。
それにもかかわらず
、社会の中にいろいろな言語変種があるということは
、事柄の伝
達がもしかしたら不正確になるかもしれないという危険性を補って余りある働きを
、そ
れらの言語変種が果たしているのだと考えざるをえません
。そこで
、そういった言語変
種はなぜ生じてくるのか
、そしてそれぞれの変種はどんな働きをしているのか
、という
ことが解明すべき問題となるわけです
。
★ こ れ を
﹁ 言 語 変 種
﹂ と 呼 び ま す
。
Trang 27Q 2 言 語 学 は 何 の 役 に 立 つ の で す か
?
学問が役に立つとはどういうことか
まずもって確認しておかなければならないのは
、言語学も
﹁学問
﹂の一分野だという
ことです
。学問とは何かというのは難しい問題ですから
、ここで簡単に定義を与えるこ
とはできませんが
、学問は大きく
﹁人文科学
﹂と
﹁自然科学
﹂に分類されます
。おお
ざっぱに言って
、人間とは何かを探求するのが人文科学
、自然とはどんな性質をもって
いるのかを解明しようとするのが自然科学だと考えておくことにしましょう
。
要するに学問とは
、人間と自然の本質を知ろうという
、私たちの欲求を実現すること
を目的として行われる活動であるわけです
。しかし
、人間や自然の本質が解明されたか
らといって
、私たちに実際的な利益がもたらされるわけでは必ずしもありません
。たと
えば物理学が宇宙の誕生がどのような過程で起こったかを解明してくれたり
、数学者が
★
あの
﹁フェルマーの大定理
﹂を証明してくれたとしても
、特に人間の暮らしが楽になる
ということはまず考えられません
き い 時 に は 解 が な い と い う や つ で す
ね
。 こ れ は ワ イ ル ズ と い う 数 学 者 が 一
Trang 28019 Q2 言語学は何の役に立つのですか?
されたとしても
、特別の利益はないのだと考えるべきでしょう
。
結局のところ
、学問というのは
、人間が自分および自分の周りで起こっている現象が
なぜそのようになっているのかを知りたいという
、人間だけがもっている高度に知的な
欲求を満たすためにあるわけです
。ですから
、学問が生み出した成果はそこのところで
評価されなければならないのでして
、実際に役に立つかどうかということは
、二次的な
問題に過ぎないと言えます
。
とは言え
、物理学がひとたび
﹁技術
﹂へと応用されると
、飛行機を飛ばしたり
、新幹
線を高速で
、しかもかなり静かに
、そして安全に走らせたりすることができます
。医学
が病気の原因を解明すれば
、それをもとにして
、病気を治すための技術を開発すること
ができます
。
こういった技術であれば
、少なくとも私たちが望んでいる快適な生活を可能にしてく
れるのですから
、役に立つのだと考えていいだろうと思います
︵ も ち ろ ん
、 技 術 が 本 当 に
人 間 を 幸 福 に す る の か ど う か と い う 問 題 は あ り ま す が
、 こ こ で は そ う い う 難 し い こ と は 考 え な い
こ と に し て お き ま す
︶
。つまり
、学問が技術へと応用されることによって
、一応は人間に
役に立つ成果をあげることができるということになります
Trang 29う
。まず伝統的には外国語の教育があげられます
。もちろん
、教育については指導の技
術だけが重要だというわけではなく
、教師の質や学習の環境などさまざまな要因が関
わってきます
。ただ
、少なくとも外国語の教育であれば
、教えられる外国語のしくみが
きちんと理解されていることが
、効果的に指導する技術を得るための一番基本的な前提
になることは確かだろうと思います
。
たとえば英語を日本人に教える場合には
、初級の段階では単語や例文を頭から覚えさ
せるだけでも
、あるいはなんとかなるかもしれません
。しかし
、実際に英語を使おうと
すれば
、覚えた例文だけではすぐに足りなくなるのは当然です
。そもそも英語で何かを
言おうとすれば
、必ず名詞と動詞は出てくるわけです
。
英語の名詞は
、単数と複数によって形の区別がありますし
、それに何より
、日本語に
て
ふ て
★
はない
﹁定
﹂と
﹁不定
﹂の区別があります
。名詞が定であれば
、theという定冠詞をつ
けなければなりませんし
、名詞が不定で
、しかも数えられる事物を表すのであれば
、a
★
や anのような不定冠詞をつけなければなりません
。
英語では
、名詞の表す事物の定
・不定は必ずなんらかの形で表さなければならないよ
﹂ と は 何 か
、 と い う の は 難 し い
問 題 で
、 実 は ま だ 完 全 に そ の 性 質 が 明
ら か に な っ て い る わ け で は あ り ま せ ん
が
、 少 な く と も 聞 き 手 に と っ て
、 名 詞
の 指 す モ ノ が ど れ な の か す ぐ に わ か る
と い う 性 質 は
、 定 を 構 成 す る 重 要 な 要
因 の よ う で す
Trang 30021 Q2 言語学は何の役に立つのですか?
★
しですが
、主語の人称によって動詞の形が変わることもあります
。日本語にも
、時制の
区別がありますし
︵ 日 本 語 に は 未 来 形 は あ り ま せ ん が
︶
、ている
﹂と
﹁ていた
﹂は進行形と
似た働きをしますから
、この性質は日本人にとって定
・不定ほど難しいことはありませ
んが
、それでも英語と日本語ではしくみが違うことも確かですから
、やはり動詞が
、表
す内容によってどのような形を使い分けるのかをきちんと知っておく必要はあります
。
こういった英語のしくみについての十分な知識を
、英語を教える立場の教師がもって
いなければ
、正しい英語を使えるようにさせるという教育の目的が達成されないことは
もちろんです
。英語のしくみがどのようになっているのかを
、人間のコトバがもつ普遍
的な特徴という視点から研究するのも言語学の一つの課題なわけで
、ですから言語学の
研究によって得られた成果は
、外国語としての英語教育に応用されて役に立つ可能性が
おおいにあります
。
日本語を外国人に教える場合についても同じことです
。日本語では名詞の定
・不定
を
、英語のように冠詞で表す必要はありませんが
、日本語には
﹁は
﹂と
﹁が
﹂の区別が
あります
。日本語の文を少しでも使おうと思えば
、ほとんど必ず
﹁は
﹂か
﹁が
﹂
︵ あ る
い は そ の 両 方
︶を使わなければなりませんし
、両者の働きは決して同じではありません
の am, ar
と か
、 三 人 称
単 数 現 在
で す ね
。
Trang 31来形と現在形の区別はありません
。それでは現在と未来の区別はどうやって行われるの
かと言うと
、いる
﹂とか
﹁泳げる
﹂のような状態を表す動詞だと
、この形で現在を表
すのが普通で
、走る
﹂とか
﹁到着する
﹂のような動作を表す動詞だと
、この形で現在
を表すのが普通だというようなしくみになっています
。
それからまた
、日本語の動詞にも
﹁切る
﹂と
﹁切られる
﹂のような能動態と受動態の
区別があって
、これは英語などと同じです
。ところが日本語には
、太郎は次郎に先に
★
行かれた
﹂のような英語などではありえない自動詞の受動態もあり
、かと言って
﹁太郎
は会社に倒産された
﹂のような別の自動詞の受動態はできにくい
、などという性質もあ
ります
。
このように
、どんな言語であれ
、それを外国語として教える場合には
、その言語が
もっている特徴を正しくとらえておくことが必要です
。そしてその特徴を
、コトバとし
ての一般的な性質という観点から明らかにするのが言語学なのですから
、言語学が外国
語教育に対して有用な役割を果たすことができるのは言うまでもないことだと思いま
﹂ 私 は テ
レ ビ に 壊 れ ら れ た
﹂ な ど
、 自 動 詞 で も
受 動 態 に し に く い 場 合 は た く さ ん あ り
ま す
。
Trang 32023 Q2 言語学は何の役に立つのですか?
言語に翻訳されて出力されるというシステムのことです
。
たとえば日本語を英語に機械翻訳するためには
、まず与えられた日本語の文がどうい
★
う単語から出来ているかをコンピュータが知る必要があります
。もしコンピュータが漢
字と仮名をきちんと区別できるのであれば
、コンピュータの中にきちんとした日本語の
辞書が入っている限り
、この作業自体はそれほど困難なものではありません
。
しかし
、与えられた文がどんな単語から出来ているかがわかっただけでは
、その文が
どんな意味を表すのかは理解できません
。たとえば
﹁太郎が食べたカレーは辛かった
﹂
という文だと
、太郎が食べた
﹂まででは一つの独立した文のようですが
、後に
﹁カ
レー
﹂があるので
、太郎が食べた
﹂は
﹁カレー
﹂を修飾している関係節
︵ ま た は 連 体 修
飾 節
︶だとしなければなりません
。
一方
、太郎は辛いカレーを食べた
﹂という文だとしたら
、太郎は辛い
﹂という部分
が一続きなのではなくて
、辛いカレーを
﹂の部分がひとかたまりであり
、太郎は
﹂は
﹁食べた
﹂の主語として働いているわけです
。
このように
、文がどんな意味を表しているのかをコンピュータに理解させるために
は
、文中の単語がそれぞれどんな関係にあって
、どんな結びつき方をしているのかを
さ せ る た め に コ ン ピ ュ ー タ 技 術 者 た ち
が 払 っ た 努 力 は
、 実 は 大 変 な も の だ っ
た の で す が
、 そ の お か げ で
、 現 在 で は
コ ン ピ ュ ー タ で 漢 字 を 自 由 に 操 れ る よ
う に な っ て い ま す
。
Trang 33すようになるのかということもわかっている必要があります
。
さらに
、英語に翻訳するのですから
、カレー
﹂という名詞が表すモノが
、定なのか
不定なのかということが理解されなければ冠詞を正しくつけられませんし
、食べた
﹂
という動詞の形が
、どんな時にどんな様態で起こった事柄なのかを理解できて初めて
、
英語のどんな動詞形に対応するのかがわかることになります
。
こういった問題は
、すべて言語学が重要な研究対象としているものですから
、研究の
成果が
、機械翻訳という技術に直接役に立つものだと言うことができるでしょう
。
さて
、こうして与えられた日本語の文が表す意味がコンピュータに理解されたとする
と
、次には
、その意味を英語に置き換える作業が必要になります
。その場合には
、まず
その意味を表すために必要な英語の単語を
、コンピュータがもっている英語の辞書の中
から選択することが必要です
。このためには
、英語のそれぞれの単語が表す意味や働き
が
、一般的にどのような形で表されるのかがわかっていなければなりません
。
そして
、選び出された単語を
、英語の文がもつ単語の並び方の規則に当てはまるよう
に並べることによって
、ようやく英語への翻訳が完成するわけです
。ここでも
、英語の
Trang 34025 Q2 言語学は何の役に立つのですか?
な技術にもたらすものは大きいと言えます
。
人間と会話をして
、人間のために働くことができるロボットを作るためには
、与えら
れた文の意味を正しく理解するという
、機械翻訳で最も重要な部分の技術が必須のもの
となります
。もちろん
、今度は言われた音声を聞いて
、それが実際にどの音なのかを判
★
断するための過程が加わってくるわけで
、そのためには人間の音声に関わる部分の研究
が応用されなければなりません
。
そしてそれ以上に
、もともと曖昧でしかない
、文によって表された事柄の表す意味
を
、それが使われる場面に応じて適切に推測することも
、どうしても必要になります
。
そうでなければ
、たとえば
﹁もっときれいに部屋が掃除できないのか
﹂と言われても
、
この文が
﹁もっときれいに部屋を掃除しろ
﹂という命令の意味をもっているのだという
ことが
、ロボットには理解できないことになってしまいます
。
もちろん
、普通の命令文を使えば言いたいことは伝えられるのですが
、私たちの日常
生活では
、このように間接的に意味を推測させる文を使うことは普通なのですから
、ロ
ボットと話をするときにはいちいち言い方を考えなければならないことになります
。と
なると
、人間相手のときのような自然な会話が
、ロボットが相手だとできないというこ
、 声 の 物 理
的 特 性 を 明 ら か に す る 研 究 の こ と で
す
。 以 前 は 何 百 万 円 も す る 高 価 で 大 型
の 機 械 が 必 要 で し た が
、 在 で は
、 比
較 的 安 価 で
、 か も ず い ぶ ん 小 型 化 さ
れ た も の が 使 え る よ う に な っ て い ま す
。
Trang 35知っておくことが必要になります
。ということは
、この分野での言語学の成果がおおい
に役立つ可能性があるということで
、ここでも言語学が応用される場面が出てくるわけ
です
。
人間のようなロボットの開発は
、最近では人間のコトバにある程度反応するペットロ
ボットが製品化され
、二足歩行のロボットも実現できている段階ですから
、必ずしも夢
のような存在ではなくなっています
。そして人間のようであるためには
、コトバを自然
に使いこなすことが必須の条件なのですから
、言語学がこんなロボットの実現に向けて
果たす役割は相当に大きいのだと言えるでしょう
。
章末問題
Q1
問1
﹁太郎は店で本を買った
﹂という日本語の文について
、中学校で学んだ文法の知
識だけで
、漓この文を作っている単語はどれか
、滷この文を作っている単語の並び方は
Trang 36027 章末問題
問3
﹃竹取物語
﹄にある次の文の中で
、現代語と意味や文法の点で異なっているとこ
ろを指摘しなさい
。
女抱きてゐたるかぐや姫
、外に出でぬ
。
︵老婆が抱いて座っていたかぐや姫が
、外に出てしまった
︶
問4次の文章の中にある比喩的な表現を指摘し
、それがなぜ比喩であるのかを説明し
なさい
。
清顕は自負を傷つけられた
。一見女らしくない勇気を以て
、不吉な犬の屍を指摘した
聡子は
、持ち前のその甘くて張りのある声音といい
、物事の軽重をわきまえた適度な
ま
朗らかさといい
、正しくその率直さのうちに
、手ごたえのある優雅を示していた
。
︵ 三 島 由 紀 夫
﹃ 春 の 海
﹄
Q2
問1
﹁壁にハエがとまっている
﹂という日本語の文を英語に翻訳する場合に注意しな
ければならない点について
、壁
﹂ハエ
﹂とまっている
﹂という三つの単語を中心に
して説明しなさい
。
問2次の各文が
、実際にはどのような意味を表しているのかを言いなさい
Trang 37d
﹁その野球選手は球が速いだけだ
﹂
Trang 39ソシュール
、チョムスキー
、モンタギュー
、ラネカー
現代の言語学は
、スイスの言語学者ソシュール
︵ 一 八 五 七
︱ 一 九 一 三
︶によってその大き
な枠組みが設定されました
。その後欧米を中心とした各国の学者たちによって
、コトバ
の本質を追求する試みが行われてきています
。コトバは人間の思考活動に関わる複雑な
ものですから
、その本質を最終的に解明するための努力はまだまだなされなければなり
ません
。しかしこれまでの研究によって
、コトバの性質の基本とはどのようなものなの
か
、そしてどのような視点からそれを解明していくべきなのか
、ということについての
方向性はだんだんと固まってきています
。
ここでは
、代表的な言語学者がコトバについてどんなことを言ってきたのかを中心に
して
、言語学を学ぶ上での基本的な用語や考え方について説明することにしましょう
。
ただそれぞれの学者は
、自分が重要だと考えるコトバの性質を解明しようという目的
い の で す か
?
★ ソ シ ュ ー ル は 文 を 言 語 学 の 研 究 対 象
Trang 40ソシュール
︱
構造主義
︱
★
まずは現代言語学の創始者ソシュールです
。ソシュールは
、コトバの本質と言語学研
究の方法についての重要な考えを提示しています
。
コトバは記号だ
コトバは意味を音
︵ 正 確 に 言 え ば 一 列 の 音
︶によって表す手段です
。意味をなんらかの知
覚的表象
︵ 耳 で 聞 こ え る 音 と か 目 で 見 え る 形 や 色 の よ う な も の
︶によって表すものを
﹁記号
﹂
と呼ぶことにすれば
、コトバも記号の一種だと見なすことができます
。つまり
、コトバ
は
、サイレンやチャイム
、交通標識や信号などと共通した性質をもつ
、意味を伝達する
手段の仲間だということです
。
し き
ソシュールは記号を一般的に特徴づけるために
、記号の意味のことを
﹁所記
﹂
︵ シ ニ
の き
フ ィ エ
︶
、それに対応している知覚的表象のことを
﹁能記
﹂
︵ シ ニ フ ィ ア ン
︶と呼んでいま
す
。記号一般を研究する学問として彼が考えている
﹁記号学
﹂という分野の一部門とし
ての言語学を考えるからこそ
、こういう特別の用語が使われているわけです
。コトバだ
けしか取り上げないのならば
、所記を意味
、能記を音
︵ の 列
︶と呼んでおいても別に不都